酒  田  の  観  光


酒田の観光は酒田観光協会からもご覧いただけます。

1.本間家
旧日本一の大地主「本間家」、酒田の本間家で詳しく説明してます。左クリックしてください
@旧本邸
時   間 9:30〜16:30(11〜2月は〜16:00)
入 場 料
大人 600円(540円)、中・高校生 300円(270円)               
障害者手帳所有者は半額、本間美術館共通券1,200円           
所 在 地 酒田市二番町12-13
交   通 酒田駅よりバス5分本町荘銀前下車、徒歩4分
酒井藩にかわり三代光丘(本間家は当時500石)が明和5年(1768年)幕府の巡見使が来酒した折、本間家が宿舎として本店(新潟屋)の前に旗本2000石格の書院造の武家屋敷を作った。終了後、本間家に下げ渡された。その為、前が武家、後ろが商家造りとなっている。

A本間美術館(旧別荘・本館を含む)
時  間 9:30〜16:30(11〜2月は〜16:00)
入 場 料
大人 600円(540円)、中・高校生 300円(270円)              
障害者手帳所有者は半額、本間美術館共通券1,200円           
所 在 地 酒田市二番町12-13
交   通 酒田駅よりバス5分本町荘銀前下車、徒歩4分
文化10年(1813年)4代光道が船人足の冬の失対事業ひとつとして別荘を作ったもので、敷地6000坪で別荘を清遠閣と云い、庭を鶴舞園(庭の赤松に鶴が舞い降りた事から鶴舞園(かくぶえん)と名づけられた。)と云う。藩政時代は度々庄内藩主や幕府の要人等を接待、明治以後は皇族や時の政府高官、文人墨客を接待する等酒田の迎賓館としての重要な役割を果たしている。
 昭和22年、全国に先がけて地方都市の美術館として発足した。後に木造が美術館として認められなって、敷地内の東側に近代的な美術館を作った。所蔵品には、本間家が大名からの拝領品や歴史的価値のある資料等の古文書や本間家代々使用した茶器や陶器など、重要文化財や重要美術品等が多数収蔵している。
本間家を参照の事

2.旧 鐙 屋
現在の鐙屋邸 鐙 屋 の 中 井原西鶴の「日本永代蔵」 井原西鶴の「日本永代蔵
時   間 9:00〜16:30
月曜日(祝祭日の場合翌日)12/29〜1/3 4〜11月は無休
入 場 料 一般310円(20人以上の団体260円)、高校・大学生210円(150円)             
小・中学生100円(50円)、幼児以下無料                              
所 在 地 酒田市中町一丁目14-20
交   通 酒田駅よりバス10分

酒田湊が米の積み出し港として繁栄をきわめた元禄時代、井原西鶴の「日本永代蔵」に北国筋最大の港として紹介している。
「坂田の町に鐙屋といへる大問屋住みけるが…北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口30間、裏行65間を家蔵に立て続け…」と鐙屋の繁昌ぶりは「日本永代蔵」に描かれています。
鐙屋は旧姓を池田と云い鶴岡出身で、一時期庄内を治めた最上義光公より鐙屋姓を賜ったという。
現在の建物は弘化2年(1845)の火災後の建物で酒田港の廻船問屋の遺構としては唯一残っているもので現在は国の指定史跡なっている。
同じ36人衆のNHKの朝ドラ「おしん」の加賀屋も近くにあった。


3.泉流寺と徳尼公
36人衆で詳しく、説明してます。左クリックしてください
徳 尼 公 の 廟 秘   仏 徳 尼 公
所 在 地 酒田市中央西町1-30
交   通 酒田駅よりバス4分文化センター前下車、徒歩2分
電   話 0234-22-2488

奥州平泉の藤原氏が源頼朝に亡ぼされた後、藤原秀衡の未亡人とも妹ともいわれた、徳の前を守って36人の武士が向かい酒田に落ちのびて来た。徳の前はやがて剃髪し、尼となり泉流庵をつくったのが、曹洞宗泉流寺のはじまりと云われている。その後、36人の武士たちの子孫は廻船業を営むようになり、36人衆を組織、東北の堺と云われ繁栄した。その後の酒田湊の発展に貢献があったと云う。
泉流寺の入り口左手の堂内には、本間光丘が施主となり、明和元年(1764)徳尼公の木像を造って祀り、毎年4月15日の徳尼公の忌日には、36人衆ゆかりの人達が集まり追善供養が行なわれています。


4.海向寺即身仏
海  向  寺 宝  物  館 即身仏 忠海上人
時   間
9:00〜17:00(12〜3月は9:00〜16:00)
1月1日〜3日休館日
入 場 料
大人 400円(300円)、小中生 200円(150円)
所  在 地 酒田市日吉町二丁目
交    通 酒田駅よりバス5分寿町下車、徒歩5分
電    話 0234-22-4264
海向寺は日和山公園の手前にあり森敦の小説「月山」の舞台となった湯殿山注連寺の元末寺で、真言宗智山派である。庄内には六体の即身仏(ミイラ)が残っているが、そのうちの二体が砂高山海向寺の即仏堂に祀られている。湯殿山注連寺の住職、鉄門海上人も衆生済度を願い自ら即身仏となったと云い伝えられている。
即仏堂には忠海上人(1755年入定)、円明海上人(1822年入定)の2体が安置され、いずれも五穀断ち、十穀断ち、1000日修行を積んだもので鉄門海上人の遺品その他も展示されてい。。海向寺の住職は代々湯殿山独特の行法をつんでおり、湯殿山行者の秘法の寺として知られている。

5.浄福寺の唐門

浄 福 寺 浄 福 寺 の 唐 門
所 在 地 酒田市中央西町4-29
交   通 酒田駅より車5分
電   話 0234-22-2747

境内の唐門は、本間家3代当主光丘が死去する前年の寛政12年(1800)寄進したものである。京都の東本願寺大谷宗祖廟を真似て京都や近江の大工を呼びよせ莫大な資金をかけ作らせた建築である。
入母屋唐破風造り、瓦葺き、柱の下部が曲がっているのが特徴で、四脚向唐門と呼ばれる桃山後期から流行した様式と云うことである。耐震性に造られており、たび重なる地震、火災からも守られてきました。

6.日和山公園

 此処も、日和山公園のところで説明してます。左クリックしてください。

酒田湊を一望できるこの公園は、其の昔船頭たちが、日本海の日和を見て船出をした小高い丘で、酒田湊の繁栄の歴史を示す数々の遺物が点在する歴史公園です

7.光丘神社
光 丘 神 社 光 丘 神 社 松 林 銘 碑

 光丘神社は日和山公園の北側山王森の中にあり、祭神は本間家三代光丘で享保17年(1732年)生まれ、酒田周辺の湿地開拓、商売の利益を土地にかえ大地主となり、のち庄内藩酒井忠徳に認められ藩財政に参与し、安永年間(1772〜81年)には、農事改善、酒田港改修工事・砂防植林業などを次々と遂行して酒田発展の基礎をつくりました。社殿西側の小丘に建つ松林銘碑は、光丘の功績を讃えて文化13年(1816年)に建てられました。
大正7年に三代光丘の植林が国に認められ正五位に贈位され、酒田町では其れを記念し市内の長坂松林といっていた場所を光ヶ丘と改めた。と同時に10年には日和山公園内に光丘神社の創設の為「頌徳会」が発足、庄内三郡の町村長以下178名の連著で内務大臣の許可を申請し12年に許可を貰った。そして光丘が植林した基点に光丘神社が大正13年5月に完成した。

8.相馬楼

相馬楼
相馬樓は、小幡楼(日和山公園入り口の左側=閉鎖)と並び酒田を代表する料亭で江戸時代より料亭「相馬屋」として開業していました。
現在残る木造の主家は、明治27年の荘内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月、国の登録文化財建造物に指定されました。
伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は1階の20畳部屋を「くつろぎ処」とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ宴舞場に、かつての厨房は酒田舞娘のけいこ場として新設しました。また、樓内の土蔵には雛人形や樓主・新田嘉一所有の書画や古美術等を展示しています。
相馬樓の逸話
相馬樓は明治26年(1893)1月28日酒田の豪商達17名が、相馬屋二階において宮中の御宴を真似た新年会を模様して不敬罪に問われ大騒ぎとなった。
世に「相馬屋事件」として記録されている。天皇に大泉長次郎氏(当時県会議員)、皇后に相馬屋の娘が扮装した。衣装を京都からわざわざ取り寄せての贅を尽くしたお大尽遊びであった。不敬罪という大事件となり、びっくりし東京から一流の弁護士を呼び、天皇の真似事ではなくお雛様の真似をしたという事でやっと免訴放免となった。


玄関
時   間 午前10時〜午後6時
冬期/午前10時〜午後5時(12月〜2月)
入 場 料
700円
舞娘弁当 3,500円(舞娘踊り付き) 2名様より5日前の予約が必要です。
そ の 他 「開樓記念」入樓券付き舞娘演舞観賞券 : 1,000円
原則として、休楼日を除く毎日午後2時より、2階大広間で踊りを御覧になれます。(有料)

9.土門拳記念館

飯森山(標高41.8m)の直ぐ麓に土門拳記念館があり、酒田の発祥の地のすぐ近くにあります。
土門拳氏の作品の寄付を受けて酒田市は日本初の写真美術館であり、個人の記念館では世界初という土門拳記念館は本人の意向で谷口吉郎に依頼の予定であったが、その御子息吉生が担当した。写真という光を嫌うものの展示の関係での工夫の後が見られる。鳥海山、飯森山を借景とした庭園は其れは見事です。
設計がはじまると土門拳氏の友人達が次々と無償での参画を希望した。流れを表現した中庭は草月流三代目勅使河原宏氏が設計し、其の中に彫刻家イサムノグチ作「土門さん」があり、詩人草野心平氏は「拳湖」(人工池)の名付け親となり書が湖畔に刻まれ、グラフィックデザイナーの亀倉雄策氏は銘板とポスターを担当したものです。
6月中旬からのアジサイ祭りの期間中は、近郷近在からアジサイを楽しむ人達で一杯になります。咲き誇るアジサイは日本有数の種類を誇っています。


土門拳記念館・裏手飯森山 庭園の借景は鳥海山 6月頃のアジサイ祭り

営業時間 9:00〜16:30
休 業 日 【4月〜11月】無休 【12月〜3月】月曜日
料   金 大人420円、学生210円、小中学生100円  庭園散策 無償
交   通 【電車】JR羽越本線「酒田駅」より、るんるんバス大学線「土門拳記念館下車」 
【車】山形自動車道「酒田IC」より5分
住   所 山形県酒田市宮野浦飯森山2−13
電話番号 0234-31-0028

世界的写真家 「土門 拳」
明治42年〜平成2年(1909〜1990)
昭和49年(1974)酒田名誉市民第1号に選ばれました。其の顕彰式に時に全作品を市に寄付することを発表しました。
世界的写真家として知られる土門拳氏は、明治42年(1909)酒田町(現酒田市)に生まれました。
日大の予科を中退し、母が宮内家の自宅のお手伝いさんをしていた関係で東京は上野池之端(不忍池の近く)にある宮内写真道場の書生として入り込みました。宮内孝太郎氏は当時営業写真界の第一人者で、写真の基礎を当時最先端を行っていたドイツに留学し、帰国後東京美術大学の写真科の教授を平行してやっておりました。
彼は東京はもとより、地方の有名写真館の子弟の中で働くうち営業写真になじめず、とかく考えの違いから問題を起こしていたそうです。其の当時を知る父(1910年生まれで宮内家とは親戚であり、土門拳氏と年が近いこともあり日大の同窓の関係で仲良しになり写真も撮ってもらった。)の話では其の風貌とのっそりしていたことからアダナを「アナグマ」と付けられていたそうです。宮内幸太郎先生の蔵書をこっそり読み漁りしているうちに営業写真の他に報道、美術写真等の分野があることを知り、居てもたっても居られなくなりやがて夜逃げならぬ朝逃げをしたそうです。
その朝逃げ後、しばらくは新聞社に入り報道写真を撮っていた時代もありましたが、やがて「ひろしま」、「筑豊のこどもたち」で認められ社会的リアリズムの写真を確立し写真界の巨匠、報道写真の鬼と呼ばれる様になった。
たった一枚写すのに何日もかかったり、仏様が笑ったとか神かがり的な所もあり、超写実主義とも評されている。
わが道を行く独特の人物でもあり、金儲けの下手な写真家でもあった。ライフワークの光と影を非常に有効に使った「古寺巡礼」などは対象(仏様)がネガに薄くしか写らず先生の気に入るまで何度も焼き直しを命ぜられ弟子泣かせだったという。
代表作に「文楽」「風貌」「日本の古陶磁」「古窯遍歴」「日本名匠伝」「古寺巡礼」ほか数多くの作品を残し不朽の名作として名高い。
昭和49年(1974)酒田市名誉市民第1号となられた時、同氏より全作品約7万点が市に寄贈されました。酒田市は個人の常設の写真展示館としては世界最初で昭和58年(1983)10月にオープン致しました。

 

10.山居倉庫
山 居 倉 庫 屋根の二重構造 暑さを防ぐケヤキ並木
昔日の賑わい 5俵担ぎ(300kg) おしんの回想
営業時間
休 業 日 無休(年末年始のみ休館)  資料館 ?
料    金 無料        資料館 400円
交    通 酒田駅よりバス約11分山居町下車、徒歩1分
住    所 酒田市山居町一丁目1-8
電話番号 0234-22-0011

山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられた庄内米専用の倉庫です。
明治、大正、昭和と米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝えれる歴史的遺産です。以前NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
現在は庄内経済連が管理し、白壁、土蔵づくりの11棟からなる倉庫の米の収容能力は13,000トン(22万俵)にものぼります。夏の高温から防ぐために、背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵は現代の低温倉庫として現在も庄内米が大切に保管されています。裏手の欅の場所はよくえいが、テレビのロケーションに使われております。
庄内米歴史資料館(有料)が併設されており一見の価値があります。



11.最上川スワンパーク

最 上 川 の 沈 床 餌 に 夢 中 の 白 鳥 100円の餌をやっている所

交   通 酒田駅よりバス11分山居町下車、徒歩5分
住   所 酒田市山居町一丁目1-8  出羽大橋の北岸 徒歩3分

昭和41年に7羽だった白鳥が、「白鳥を愛する会」が中心となり、多くの市民の協力で現在では、毎年11月頃になりますと白鳥約8,000羽と鴨数千羽が集まる楽園となっている。
酒田の冬の風物詩として訪れる人も多く、最上川河口は日本有数の白鳥飛来地(平成9年には日本一を記録)となっています。また、冬期間(11月〜3月)は白鳥の観察が楽しめる休暇施設「スワンパークほっとハウス」も設置されております。また、100円で白鳥の餌を買って餌付けも出来ます。
此処は「日本の音風景100選」にも選ばれている。

12.城の輪の柵(きのわのさく=国指定遺跡)


城輪柵跡は、昭和初期からの発掘で柵木が続々と発見されました。 「805年蝦夷征伐で名高い征夷大将軍陸奥守坂上田村麻呂の論奏により出羽国府(城輪遺跡=酒田市本楯大畑地区)を立てる。」(三代実録)」とあります。
又、貞観7年(865)出羽国城輪の神に従五位下を授けたという記録が残っていることから、平安時代の初めから終わりまで、約400年間にわたる国府跡であろうと言われています。現在、歴史公園としての整備が着々と進められています
また、この遺跡から平安後期の日本最古の将棋の駒が出てきました

酒田湊の歴史にて、詳しい説明があります。
所 在 地 酒田市本楯地区
電    話 0234-26-5777(酒田市文化課文化財係)
交   通 酒田駅よりバス20分

13.清亀園    
清亀園の平庭 清亀園の平庭 清亀園の平庭
酒田の本間家と並び称せられた大地主、伊藤四郎右衛門の別荘として明治26年建造されました。庭は当時50数名の門下を擁していた名庭師山田挿遊の手によるものです。
当時は庭園内に田もあったというほど広大なもので現在は建物が建ち見えませんが鳥海山を借景とするものでした。座敷から眺める池と岩、松の配置はさすが名庭師の仕事といえます。現在は酒田市が管理し、一般に公開されています。

時   間 9:00〜22:00
入 場 料 酒田駅よりバス5分
所 在 地 酒田市浜田一丁目11-13
交   通 酒田駅よりバス5分


14.酒田北港緑地展望

 展 望 台
北港緑地公園には、サッカーができるような広いグラウンドがあります。そのすぐ西側に酒田港を一望できる展望台があります。晴れた日には鳥海山、飛島、庄内砂丘の松林、北港を初め本港等が良く見渡せ主な観光スポットや釣場等の位置を確認できます。
展示室には港の知識を得ることができるパネル、映像等が、更に展望室には酒田港の模型があります。

開 館 日 4月から11月 ※12〜3月まで冬期閉館(月曜日除く)
開館時間 10:00〜17:00 入館料無料
連 絡 先 山形県港湾事務所 0234−26−5633
展望台からの眺め
北  東  側 北    側 南    側 南  東  側

15.飛島

写真の手持ちが少ししかありませんので、詳しくは酒田市のボックスか検索で飛島観光案内をご覧ください。飛島だけではなくその他の観光スポットが御覧いただけます。
勝浦港より遠く鳥海山を望む 勝浦港の向かって右 勝浦港と舘岩

酒田市飛島は市の北西方向に39km(酒田港より市の定期船ニューとびしまで1時間30分)の洋上にある島です。、遊佐町吹浦の三崎地区から西に約30kmの日本海上にあります。
伝説によれば「その昔鳥海山が爆発して山頂が飛んで出来た」といいます。しかし、現実は地中の海底火山のマグマが噴出して形成された島であります。本島は50m以上、40m、20m、5mの海成段丘と海蝕台からなり、ほぼ扁平な台地です。この事は海の侵食だけではなく断続的な隆起によって形成された島といえます。
周囲を対馬暖流が流れているため、年平均気温は12℃以上と高く積雪も10cmに達することはまれである。そのため島には一年中タブノキやヒサカキなどの常緑広葉樹に覆われています。天然記念物ウミネコの繁殖地としても知られており、遊覧船で飛島1周の観光も出来ます。また、渡り鳥の中継地となっておりバードウォッチングの島としても最近脚光を浴びています。
平安時代の末期まで奥羽の豪族安倍氏、清原氏等の勢力下におかれていました。 その後由利氏、武藤氏、最上氏そして最後に酒井氏に移りました。島の名前も都島、渡島、別れ島、鶴路島、潮島、 豊島、とど島と本島の名前も変わり、江戸時代に至り現在の飛島という名称に固定されました。
観光シーズンの夏は1日三便と増便され、県内唯一の離島と云う事もあり賑わいを見せております。
最近は、メジナ(4月〜)、黒鯛(5月〜)、真鯛(6月〜)等の釣のメッカとなり県内外の釣師を集めております。春から夏にかけての日本海は穏やかなのですが、土用波の出るお盆過ぎは危険なので注意が必要です。

乗船のお問い合せ
定期航路事業所 
 〒998-0036酒田市船場町2丁目5番6号
 電話 0234-22-3911 
 FAX  
0234-22-3912     

観光/乗船/宿泊のお問い合せ
酒田観光協会 
 〒998-0044酒田市中町2丁目5番10号(産業会館内)
          
 電話 0234-24-2233/2454  FAX0234-24-8350

16.持地院の酒田大仏

曹洞宗持寺院 金銅釈迦無尼佛  昔日の金銅釈迦無尼佛

1395(応永2古湊(現在の酒田市古湊)の蒲地勝太夫の帰依により湖海理元禅師が持地院を開く。
蒲地勝太夫は当時西九州を本拠とする蒲地水軍(源氏)に属していた一族で、渤海国と交易があり栄えていた古湊に、妻と共に住居を移した。資産を投じこの地の豪族となったが、やがて戦国の世になり勝太夫は戦力を持っていなかったので酒田の領主に仕え身分を保証されていたと云う。古湊の廻船問屋、漁師達を仕切り曹同宗に帰依し、持地院を建立した。
持地院の開祖は岩手県胆沢の葛西氏の次男であった湖海理元禅師という。伝説によれば白髪の老人が湖海理元禅師の夢枕に立ち古湊にて寺を開くようにと云われた。一方蒲地氏にも同じ白髪の老人が夢枕に出てきて当地に現れる僧侶に寺を建てる土地を与えるようにお告げがあった。1436湖海理元禅師の本家の葛西氏が伊達氏に滅ぼされた後、まもなく禅師が亡くなった。(飽海郡誌)
やがて蒲池氏が1459戦いに敗れ古湊村は衰退し人口が次第に酒田へ移動する持地院は本町5丁目付近に移転するも、その後現在地の酒田市日吉町に移転した。
日清戦争のさなかの明治27年酒田大地震(焼失家屋1747戸、倒壊1558戸7、死者223名をだし、この寺も倒壊した。)が起こった。日清戦争と酒田地震の霊を弔う為、38世宗渕は金銅製の釈迦無尼佛の建立を決意。やがて日露戦争が勃発し、再建した本堂の焼失が続き中断。日露戦争の4戦没者の霊を含める事とし、大正3年に高さ13mの酒田大仏が完成した。第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まり昭和18年の金属回収令にて強制的に解体された。38世宗雄和尚は再建に奔走したが、60年に死去。39世に至り平成4年6月大本山の貫主を迎え開眼供養を行い、金銅製の釈迦無尼仏が再建された。基壇をいれ高さ17メートル(本体13m)は金銅製の立像では 日本一と云われる。


所 在 地 酒田市日吉町一丁目4-38
交    通 酒田駅よりバス5分
電    話 0234-24-1164


16.日本最大級の風車

平成15年春から酒田北港西護岸通称水路と宮海海水浴場に高さ100mと云う日本最大級の風力発電用風車が作られています。

住友商事鰍フ子会社のサミットウインドパワー酒田鰍フ所有で8基が姿を現しました。

デンマーク製の支柱高さ60mで三枚羽は直径80m、重さ34,000kgあり1基で最大2000kwの発電能力があります。8基がすべて稼動すれば酒田市内の一般家庭の電力の約30%を賄うといいます。

平成14年1月から本格操業しています。


宮海海水浴場の風車